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宇佐晋一先生 ご講話より

 

三聖病院では週3回宇佐晋一先生によるご講話が行われてきました。その中からいくつかピックアップし、ダイジェストをお届けします。

心は中心のない円

H27年3月例会ご講話

 皆さん方この三省会がなかったらどうかと言うことをお考えになったことがあるでしょうか? 多分こうしたいああしたい、不安より安心でいたいというように自分の心や生きるということについてその方向に持っていこうとされるんですね。世間一般に治すということ(健康というもの)を心にわだかまりのない状態として目指してやっておられるという風ですから、肝心の自分のさしあたっての不安というものが目について目について仕方がないのです。薬は嫌な方、つまり不安や恐怖を感じない方に持っていこうとする、つまり方向がはっきりしているわけです。しかし心と言うものは方向がない中心のない円のようなものでありまして、どのようにも決められないのです。それを一方向的に安心と言う方へ向けて治されようと熱心なわけです。ですからどこまで行っても不安がどうにもならないのです。森田療法は不安とともに安心も問題でなくしてしまいますので、いたって単純明快そして時間がかからないのです。

自分を相手取らない

 チンパンジーは考え、すなわち言葉を持ちませんから治そうとするものを描くことがないわけです。これを自己意識がない。皆さん方は自分を問題にして治すことに甚だご熱心だったわけです。皆さん方がご自身を内省されるもの(描いた自己意識)が信用できるものかと言いますと何の根拠もない、思いのほかでたらめなのです。つまり、自分が見た自分、すなわち脳が生み出した精神現象は脳自身を評価しえないのであります。振り返ってみた心は重要な課題であるかのように見えながらそれを何とかしようとすること自体が囚われなのです。従って、自己意識についてどうしたらよいかということは今後全く必要がなくなる。全ての工夫は全て皆さん方の当面の事柄に向けていらっしゃれば、脳の働きとしての精神現象は万全であると言ってよろしいのです。自己意識の中と言うのは論理が整っておりませんので筋を通した持ち方、例えば心を整えるというような話は何の役にも立ちません。

 ゆめゆめ自己意識の中に手出しをなさいませんように。全くでたらめな自己意識を強調するかのごとく禅問答があるのです。つまり決めずに、見えるものを言っているのです。話が成り立つようではいけないのです。これはなんのことはない森田先生のあるがままそのものであります。

治るというのは治ることから始まる

 心をおろそかにしたような表現をしたかのように受け取られたかもしれませんが、これが一番大事なのでありまして、苦しみ悩みに対策を講じません。つまり治そうとする対象がないのが森田療法の“あるがまま”です。無構造であり、よいとか悪い価値も判断も加わらないのです。従って私は皆さん方に何かをお伝えする伝達者ではないのです。いきなり皆さん方が治られる。いきなり治ることから始まるのです。今まで私がお話ししましたことは全部忘れていただいてよろしい、こういうのが全治なわけです。是が経験を超えるということです。早速その場のことにすぐ取り組まれたらよろしいのです。

 今日は色々よいお話を頂きましてありがとうございました。

正受不受  
如々真 

  "自分"、"生きる"、"心"といった論理の異なる世界は、どこまで行っても“ただこのように”、“ただそのような”ということだけである。つまり、知るということでは解決しない。わかる、理解するというのは外のことには役立つが、自分を相手にしては脱線である。

 従ってこの厄介な問題はどのようにも決めるわけにはいかない。決められないのである。

百姓日用不相識

 人はえてしてみずからという自分の力に期待して、努力で心の問題を解決しようとする。しかしこれは不徹底に終わる。それに対して森田療法はあるがままであるからそこに本来のものがちゃんと働いていて、よいも悪いもない。良し悪しは外の世界にある。

 ○は概念化されないもの、徹底そのもの。百姓日に用いて相知らず(百姓日用不相識)。おのずからの働きの徹底の時、心にも自分にも生きることにも用事がなく、早速生き生きした姿がこの場に現れるのである。

歴史を超え、経験を超えて

 次の仕事の目的を果たすべく向かうその一歩一歩が全治である。お釈迦さまは、6年の長い修行をついに諦めざるを得なかったという挫折を次の新たな生活に向かってどうしたらよいかという外の目的に向いた瞬間に悟りが開けた。挫折してくよくよ悩んでいたのではなく、辛い状況においてさてどうしようかという次の人生設計の一歩を踏み出すことが劇的な悟りに変わったのである。

 それが今から2600年前のインドで起こったことである。

 起こることをありのまま受けるということは、受けないのと同じである。

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